「英語教師でもないのに英語教材を作ったわけ」 ■読書人の雑誌「本」1999年4月号に掲載 |
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山田玲子 成り行きというのは恐ろしい。私は、学習心理学、音声情報処理学を専門とする研究者である。 研究というものを応用研究と基礎研究に分けるとすると、基礎研究一辺倒できたつもりだ。 そして、基礎研究者たるもの、応用など考えるべきではないという信念すら密かに持っていた。 加えて、英文科に行くのが嫌でエスカレータ式の女子校を飛び出し、理科系の大学に進んだ人間でもある。 そんな私が自分の研究結果を応用して、あろうことか英語教材を作ってしまったのだから、人生、何が起こるかわからないとつくづく思う。 このように書くと、いやいや作ったのかと誤解されるかもしれないが、今回作った教材は、十二年におよぶ基礎研究の成果を盛り込んだ、血と汗と涙の結晶である。 この場を借りて、基礎研究が英語教材に結びついた成り行きを紹介してみたい。 そして、基礎研究の重要性を少しでも感じ取っていたでければ幸いである。 ところで、この教材、名称は『ATR CALL 完全版 英語リスニング科学的上達法 音韻編』。 Windows 95/98上で動作するCD-ROM付き書籍である。本題に入る前に、ATRとCALLについて、短く説明しておこう。 まず、ATRというのは私が所属する研究所の名称である。日本語でいうと、「国際電気通信基礎技術研究所」。 ご存知の方は少ないだろうが、電気通信分野の基礎研究に関しては、国際的にもいい線をいっている。 CALLというのは、「Computer Assisted Language Leraning」の略で、コンピュータを使った語学学習のことである。 LLがテープを使っていたのに対し、CALLではパソコンを使う。 個人のペースに合わせて学習を進めていくことができるというものだ。 さて、ATRの研究テーマの中で大きなウェイトを占めているのが音声研究である。 たとえば、コンピュータに人間の音声を認識させる「音声認識技術」を研究しているチームがある。 この音声認識のシステムを作る際には、あらかじめコンピュータ人間の音声をたくさん入力し、学習させる。 人間が母音や外国語の音声を学習するのと似ているが、現在の音声認識システムは、人間ほど上手に学習できず、解決しなければならない点が多々ある。 コンピュータに人間を見習ってもらうためには、まず人間を知る必要がある。 そこで、私は、人間がどのように音声を学習するか、日本人による英語音声学習を題材としてとりあげ、研究を開始したのだ。 英語をとりあげた理由は、被験者(つまり英語の苦手な日本人)が周りにたくさんいて便利だから、という研究者本位のものだった。 日本の英語教育に一石を投じようなどという大望は微塵もなく、ましてや英語教材を出版するなど夢にも思っていなかったのである。 何年かの研究を経て、聞き取りや発音の特徴がかなり明らかになってくると、そこから出てきた仮説を学習実験によって確認し、発展させることを思いついた。 調べたいことは山ほどあった。 そこで、英語音声の聞き取り訓練プログラムや発音訓練プログラムを作成し、学習実験を繰り返した。 学習過程を知る研究と、効果的な学習方法の発見とは、実は表裏の関係にある。 学習の過程がわかれば、訓練効果を上げる方法も明らかになるし、効果的な学習方法を開発すれば、学習研究が効率良く進む。 そんなわけで、私の研究は学習方法の改善と共に進んできたともいえる。 英語のRとL、BとV、母音の区別など日本人が苦手な音のリスニング能力を確実に向上させることができる学習教材のプロトタイプはすでに手中にあったのだ。 しかし、私の心の奥には基礎研究偏重主義が根強くあり、自分の研究を実用化につなげることに、大きな抵抗があった。 そんな折、講談社のK氏が私の訓練のプログラムに興味を持ってくださり、昨年刊行したブルーバックス『英語リスニング科学的上達法』の作成に参加することになった。 最初は、研究結果の資料や、CD-ROMに載せるプログラムを提供する程度の消極的な関わりのつもりだったが、いざやってみると、物を作るプロセスは意外とおもしろかった。 そして、今度は第二弾となる単行本『ATR CALL 完全版 英語リスニング科学的上達法 音韻編』を中心になって作ってしまったのだから、人間変われば変わるものである。 こうして、温めに温め、腐る寸前だったかもしれない?基礎研究の成果が、語学教材として世に出ることになったのだ。 今では、基礎研究とはいえ、その成果を社会に還元することも研究者の重要な役割であると素直に考えている。 ふり返ると、基礎研究の大切さが見えてくる。基礎研究は、一、二年先という短期間で役立つものではなく、十年、二十年、あるいはもっと先に役立つかもしれないことを扱うものであろう。 今ならば数十万円のパソコンでできる実験を、十二年前に数百万もする計算機を使って開始した。 ひとつひとつの要因をつぶさに厳密に統制された実験で調べあげていくには、時間も研究費も必要であった。 だが、十二年間に蓄積した実験結果、資料、知見は膨大である。 教材の開発を目的として研究をしていたのでは、付け焼き刃的解決方法しか提示できなかっただろう。 メカニズムを根本から理解しようとする姿勢と、データの豊富な貯蓄があるからこそ、一般に還元できる環境が整った時にすぐに出すことができるのである。 自分の研究を例にとってこんなことを言うのもおこがましいのだが、これは事実であろう。 決して、実用化に結びついた研究を軽視しているのではない。 それらの研究なしには日本の科学技術の進歩はありえない。 しかし、そういった応用と直結した研究と平行して、どれだけの基礎研究を行っておくかで、日本の科学技術の将来は変わるのではないだろうか。 『ATR CALL 完全版 英語リスニング科学的上達法 音韻編』の話に戻るが、解説では基礎研究の結果から得られた知見をかみくだいて、わかりやすく述べた。 CD-ROMに含まれるプログラムは、研究で使用したものをもとに、一般向けに改編した。 使用した音声も、研究用に作成した音声データベースを利用している。 研究スタッフで作成したため、デザインは簡素である。 しかし、訓練の効果は研究で実証されており、「科学的な」裏付けだけは十分にある。 そこで、「科学的上達法」という、顔から炎があがってぼうぼうと燃えてしまいそうに恥ずかしい名前を、結局は臆面もなくつけたのだ。 「科学的」であることのひとつの要件に「再現性」がある。 同じ条件で実験を行った場合、同様の結論が得られるということである。 これまで千人以上を訓練しており、再現性は十分である。 大学生での実験の結果、訓練の効果は半年後でも保持されていることが明らかになっている。 素晴らしい効果だが、見方をかえれば、学習教材に対する警告ともとれる。 粗悪な教材で訓練すれば、それがそのまま定着してしまうことを意味するからだ。 特に、柔軟で可能性の豊かな子供たちに与える教材には細心の注意が必要であろう。 二〇〇二年度からは、小学校で国際理解教育の一環として英語教育が始まる。 そこで、間違った発音の教師が英語の音を教えたとしたら、生徒の聞き取り能力や発音に長期的に悪影響を及ぼす可能性がある。 他に教授する手段がないならそれもいたしかたないが、パソコンが完備された今の時代、吟味されたCALL教材が真価を発揮するのが聞き取りや発音の学習ではないだろうか。 私の訓練プログラムは、同僚の足立隆弘研究員と共同開発したものである。 今も私が実験をする傍らで、彼は音声認識の技術などをとりいれつつ、素晴らしい訓練プログラムを開発し続けている。 私は中年まっさかり、後は老いの坂を転げ落ちるだけだが、彼は弱冠二十八歳。 語学教材の未来は明るいと信じていただきたい。 (やまだれいこ・ATR人間情報通信研究所主任研究員) |